2018年12月26日 水曜日

小という字

Filed under: 社長の望月です。 — webmaster @ 9:49:03

小という字は、小さな点という象形文字から、現在の字になったといわれている。

小に対して、大という字がある。

大は、同じく象形文字で、人が両手両足を広げた形とある。

小という文字の意味は、小さいとか細かいとかで周知の通り。

さらに話を広げ、少はどうなんだと調べ始めてすぐに、これは際限のない領域と気づきやめた。

ところで小。

馬鹿と小馬鹿では、小馬鹿の方が馬鹿より小さいというか小物なのだが、馬鹿より悪い気がする。

悪党と小悪党も、小悪党の方が性格から内容まで浅はかな気がする。

姑と小姑も、小姑の方が意地悪な気がする。

小という表現的な字を用いることで、本来の字の持つ意味に、人の悪意をプラスしている。

しかしながら、悪魔と小悪魔では、小悪魔はどことなくコミカルというか、愛情表現になる。

粋よりも、小粋の方が、なんかおしゃれだ。

倅と小倅だと、小倅の方が立場が低い気がする。

癪より、小癪の方が、何か人の感情が加味されている。

まぁ、この手の話には際限がない。

日頃、漠然と意味を捉え、何となく使っている言葉だが、どういうわけか、改めて気なるものがある。

そんな時は、流さず、自分で調べてみる。

このような習慣は、案外と何気ない生活を楽しくしてくれる。

インターネットという便利なツールが誕生し、いつでもどこでも調べることができる時代の、新しい習慣になってゆくのかもしれない。

謙遜と卑屈

Filed under: 社長の望月です。 — webmaster @ 8:53:41

卑屈とは、いじけて、必要以上に自分を卑しめること、他人にへつらうこと。

『どうせ自分なんか・・・』といじけていて、一言でいえば面倒くさい人。

『自分はかわいそう・・・』という一種の自己陶酔状態でもあり、さらに面倒なのは、他人の声に耳を傾けない。

若者言葉でいう『かまちょ』も卑屈の表れだといわれている。

一方、謙虚とは、控えめで慎ましいこと、へりくだって相手の意見を尊重すること、と辞書にはある。

両者とも、同じような所作をすることが多いが、一番の違いは、言葉遣いにある。

卑屈の人は、マイナス思考、ネガティブな言葉が多い。

モノゴトに対し否定的でもある。

新人の自己紹介で『ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします』は卑屈傾向。

『ご迷惑をおかけしないように一生懸命頑張ります』は謙虚傾向。

初対面の人相手に、迷惑をかける、と言い切り、それを受け入れろという、なんとも傲慢な性格も垣間見える。

迷惑をかけないように、自分は一生懸命頑張る、という相手を気遣う性格とは、天地の開きがある。

結局、卑屈の人は、自分のことしか考えず、何に対しても自分至上主義。

謙虚は、まず相手のことを考え、最後まで相手を気遣う。

ところで、この話は、善悪とは全く関係ないところに興味深い。

善人にも悪人にも、それぞれ謙虚と卑屈がある。

同じように、一人の人間の中にも、混在している気もする。

私なんぞは、トラブルが面倒くさいので、すぐに謝ってしまう傾向がある。その方が解決が早いし楽でもある。

しかし、改めて考えてみると、それも卑屈であるような気がする。

主張すべきは主張する。

但し、大切なのは、一方的に自分目線で主張するのではなく、相手のことを思いやり、立場も尊重することを忘れない。

譲りすぎれば卑屈だし、譲らないのも卑屈・・・

謙虚って言葉を簡単に使ってきたが、卑屈と卑屈のわずかな間に存在する、貴重なものなのだと感じる。

2018年12月20日 木曜日

新世代

Filed under: 社長の望月です。 — webmaster @ 18:07:58

一般的に世代とは、年齢10年刻みで使われていることが多い。

それ以外にも、アナログ世代とか、その時代象徴する技術やトレンドでも使われる。

先日起きた、北海道でのボンベ爆発事故。

恐らくは、子供の時、あまりボンベを使ったことのない世代の人たちが、締め切った室内でガス抜きの処理をしていたのだろう。

ボンベと名の付く缶は、爆発する恐れのある危険物である。

当然、その中身も危険である。

私が子供の頃は、アルミサッシではなく、木製扉や窓枠で、すきま風が否応なく入り、それが多少の換気にもなった。

石油ストーブや七輪を使う家庭では、窓を開けるなどして、習慣的に換気をしていた。

ところが、今は技術の進歩で、部屋は密封状態の為、意識的に換気をしないと、部屋の空気は全く変わらない。

密封された缶から放出されたガスは、密封された部屋の中に溜まる。

そこに火花を飛ばせば、爆発する。

ガソリンタンクに、電池式のポンプを差し込み、スイッチを入れるようなものである。

報道では、ボンベの数がどうとか、ボンベを売るノルマがどうとか言っているが、今回の事故の一因には、生活習慣の移り変わりがあるのだと感じる。

現代社会では、火と刃物を使う機会が激減している。

家庭では、オール電化の普及で、火を使うことはほぼゼロ・・・

その家庭で育つ世代は、当然、マッチもライターも使えない。

考えてみると、バーベキューで炭をおこせず苦労している若者たちをよく見かける。

危険や危機から、遠いところで育った人々・・・

公園の中から出たことのない子供が、道路の危険性を知らないようなものである。

私はこんな人には関わりたくない。

刃物も同様で、スーパーに行けばカット野菜が売られ、日常生活でも、何かを切ったり削ったりすることはほとんど無い。

最も、車もEVに代わってゆく傾向なので、近い将来、モーター車と燃料車の特性による操作感の違いから、新しい種類の事故が増えるのかもしれない。

年配者が、『昔はこうだった』という話を、若者はうるさがる。

しかし、世代が新しくなるにつれ、新技術と新技術が混在している間は、そんな話も大事なのかもしれない。

今、世の中から、危険と言われるものが無くなりつつある。

不便や不自由も、快適とか効率追求にやっつけられている。

しかし、私が思うのは、不測の事態が起きた時に不便や不自由を知らない人は、大変困るし、足手まといになるおそれがあるということである。

作ることを知らず、使うことにだけ長けた人。

なんか出来損ないの人間のような気もするが、長い歴史の中には、こんな世代もあるのだろう。

私もその世代の一人である可能性がある。

安穏としないように、非日常の世界にあえて身を置く時間をつくろうと感じた。

2018年12月18日 火曜日

アンテナ

Filed under: 未分類 — webmaster @ 17:55:02

改めて考えてみると、現代社会はアンテナが天文学的な数量である。

スマホが1億台あるということは、1億本のアンテナがある。他にも、車の数だけアンテナがあり、ラジオの数、GPS機器、コードレスホン等々。

しかも、それぞれが専用で、兼用はできない。

目に見えないから意識もしないが、電波の数も同様だ。

目に見えたら、よけることができないほどだろう。

ところで、世の中には、幽霊が見える人と見えない人がいる。幽霊が見えない人の方が圧倒的なために、幽霊が見える、または見たことがある人は、特別視される。

しかし、考えてみれば、アンテナが違うのかもしれない。

危険に敏感な人、人間の感情に敏感な人、景気に敏感な人も同様なのだろう。

アンテナ式のテレビから、ラジオが聞こえたら、それを敏感だと喜ぶ人はおらず、故障として修理依頼する。

人間のアンテナも同じように考えてみる。

中には、あれもできるしこれもできる人がいる。

しかし、それは稀な話。

昔の人は、ひと夫々、アンテナが違うことに気づき、十人十色という発想で表現している。

人間のアンテナにも、周波数に代わる何らかの波動とか電波を受ける帯があるかもしれない。

当然、感度の良い悪いもある。

パラボラアンテナもあれば、指向性アンテナもあるとしたらどうだろう。

あの人には聞こえるかもしれないが、私には聞こえないことがあっても当然なのだ。

医学的にどうこうと片付けてしまってはいけないこともある。

人間のアンテナは、有機体であり、何らかの神経とつながっている。

テレビに画面があるように、人間は脳でイメージする。

どうでもいい話と言えばどうでもいい話だが、何だか面白い気付きのような気がする。

2018年12月11日 火曜日

雑感

Filed under: 社長の望月です。 — webmaster @ 10:09:53

今朝の日経新聞埼玉版に、登山の遭難についての記事がある。

『遭難多発、安全確保へ』という見出し・・・

要約すると、富士山や南アルプスの登山者に対し、登山届の提出を努力義務化したとある。

それでも遭難が多発しているので、厳冬期に関しては、義務化にする。

しかし、提出しなくても罰則はない。

なんなんだこれは・・・

つい最近まで、登山はマイナーレジャーで、ここ数年で一気に広まった。

山頂付近まで車で行けて、ウェアーなどもおしゃれになった。

山梨山岳連盟は、『登山だけでなく、遭難も大衆化している』なんてのんびりしたことを言っているが、そんな場合じゃないだろう。

日本という国から、自己責任という言葉が消えつつある。

特に登山は、多少の危険が伴うところに魅力がある。

その危険と、困難さを乗り越えて山頂に立つから面白い。

山頂を見るだけなら、衛星写真でいいし、ヘリコプターで行けばいい。

そのリスクは、自己責任が負うべきである。

危険が嫌だし、困難も嫌だ、というなら、柵で仕切られて公園の芝生で遊べばいいのである。

ところで、努力義務となんという回りっくどい言い方で、まぁよく考えたものだ。

命に係わるとは思えない。

自己責任で行かせればいいのだ。

ライフジャケット未装着の溺死、渡航禁止地域でのトラブル、遊泳禁止場所での遊泳・・・

本人が一番の責任でその次が他人である。

登山については、そのブームを創った業界や、もてはやしたTV局、出版社にも責任がある。

やりっ放しでいいのか・・・

とにもかくにも、いかにも回りが悪いという風潮は、一般生活にも浸透し始めている。

周囲の意見は違うだろうが、自己責任については、もっと声を大にして口にしてもいいと感じる。

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